各町紹介

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各町の紹介

氏子町は、旧那珂湊市の町名に由来し現在18町が参加しています

「年番」は輪番制で、祭りの一切を取り仕切る責任のある役割です。
釈迦町、元町は年番町へのお神輿の引き継ぎに携わります。
和田町はお神輿の運行に携わります。
「神幸祭」、「還幸祭」の供奉行列(お神輿の行列)の露払いとして「獅子」の運行を六町目が行います。

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和田町

和田町は、菅原道真公の御神体が流れ着いた湊八朔祭発祥の地として、当初より御神輿の渡御を司るご奉仕を代々引き継いでまいりました。そのため、和田町は湊八朔祭発祥当初より風流物を所有しておりませんでした。 しかし、昭和40年代初めごろより、「和田の子ども達にも屋台を」という気運が高まり、当時の有志の若者たちによって、何度か近隣より借用した屋台で運行したことがありました。そのような悲願のなか、平成15年7月に町内各戸の持寄りによって完成したのが待望の「和田町の屋台」であります。 それゆえに和田町の若者たちは、伝統として代々伝わる「御神輿の渡御」と「風流物の町渡し」という二つの役目で湊八朔祭にご奉仕することとなったのです。
 
 

 

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七町目

橿原神宮の宮元町である七町目は、以前は旧七町目地区及び富士ノ上地区で構成されていましたが、平成9年の七町目自治会発足に伴い、新たに浅井内、道メキ、湊中原、狢谷津地区が加わり、同時に町内会にも加入したことで、現在約340世帯の大きな町内会となりました。お祭り等各種行事には「評議員会」「若衆頭」「小頭会」「富士子供会」のチームワークのもと、楽しく元気に参加しています。
また、平成から令和元年に変わった記念すべき年には、20年ぶりに年番町となり、町内一体となって、盛大にかつ成功裡に天満宮御祭礼本祭を執行することができました。
 
 

 

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六町目

六町目獅子の由来
起源は不明、言い伝えによると全国を行脚してきた六部(修行者)が病に倒れ、六町目の入屋の主人が手厚く看病し全快した。六部はそのお礼に全国の神社のお札で獅子頭を作った。それが今日に残っているといわれております。

獅子の演舞と八朔祭での役割
獅子は雄・雌・子の一人立ち三匹獅子で「棒ささら」とも呼ばれており、底なし屋台の中で一頭ずつ三者三様に演舞します。天満宮の八朔祭では御神輿の露払いとして供奉しております。

 
 

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泉町

泉町の屋台は、明治時代に築造され100年以上の年月を八朔祭りの神の依り代として、町内の発展と住民達の安寧を守り続けてきた。
先代屋台の老朽化に伴い、平成20年に新たに築造され、その役目を今も引き継いでいる。
泉町の屋台の荘厳さを象徴するのが、正面の唐破風の稜線を背にした雌雄一対の龍の彫刻である。泉町の守り神として「龍の雲を得る如し」と言うように、重厚で壮麗な屋台の廻り舞台に芸姑の囃子と若衆の熱い息吹が吹き込まれると、屋台に生命が宿り、町内がひとつになるのである。
 

 
 

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五町目

 
 
 

 
 

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四町目

明治時代に築造された四町目「山車」は男囃子として、また時代の流れにより「屋台」に改造され、その時代を賑やかにさせてくれたそうです。ところが大正8年の八朔祭りにおいて不慮の事故が発生、屋台焼却を余儀なくされました。それから3年間自粛し、大正11年に四町目の屋台を造り始め、翌12年に新造屋台が完成されましたが、関東大震災が発生したため本祭りが居祭りに変更されたそうです。それでも氏子会役員さんの努力により芸者さんを乗せ四町目の中だけを引いて晴れ姿を披露、氏子代表はじめ字民ともども喜びを分かち合ったと伺っております。
新造屋台の棟梁は六町目の雲類鷲大工、彫刻は田原伝吉さんがほとんど仕上げたとのことです。現在も屋台を支える左右の柱には、昇り龍が眼光鋭く我々字民を暖かく見守っております。
この様に歴史と伝統ある湊八朔祭りに天下の四町目の屋台と共に参画できることやご奉仕できることを、我が字民全員が誇りに思っております。
そして今後の課題ですが、少子高齢化が進む中でこれまで先人たちから引き継いできた全てのものを後世に伝えるため、責任と自覚をもって進めて参りたいと思います。
 
 

 
 

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明神町

「明神町」という町目は、寛文2年柏原明神(橿原神宮)が鎮座したことで明神町と呼ばれるようになりました。現在はひたちなか市湊本町、湊中央の一部で構成されています。明神町町内会は現在44世帯から成り立っています。嘗ては賑わいのある商店街として栄えた明神町ですが、時代の流れとともに世帯数の減少、高齢化、屋台の老朽化などを理由に平成26年を最後に屋台の参加を断念しております。
 明神町の屋台は昭和24年に竣工、全体的に黒漆塗り、金具・彫刻を多用しています。
元来 天満宮御祭禮は、明神町を出発し二日間かけて各町内を廻り明神町に入った時点で終了となり、屋台もお囃子が本町二丁目にかわり各町内に戻って行きます。昨今は、行列と屋台のコースが違うため変わっていますが、屋台も町内に帰るときはお囃子を本町二丁目にしています。
 
 

 

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弍町目

 
 
 

 

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壱町目

壱町目の屋台は2011年に完成した、湊八朔祭り参加屋台の中でも一番新しい屋台です。
製作中、東日本大震災で津波の被害に遭い、屋台半分が海水につかり部材の一部が流されてしまいました。
そんな中でも町内一丸となり屋台の完成にこぎつけました。
壱町目の屋台は鬼板、柱に獅子、懸魚には麒麟の彫刻が特徴です。
派手さはありませんが、夜はスポットライトでお囃子さんや端棒、彫刻を明るく際立たせています。
 

 

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龍之口町

わが町「龍之口町」は、那珂川に架かる海門橋の両側に位置し、前に那珂川、後ろに湊公園があり昔は官公庁が置かれた歴史ある町です。
1994年ひたちなか市発足により「海門町」となりました。
神幸祭・還幸祭行列のルートにあたり、屋台運航を担う若連も団結力が強く楽しく祭りを行っています。
現在の龍之口町屋台は、2004年に竣工、お披露目されました2011年の東日本大震災の時は、液状化により家が傾き、津波による床上浸水等甚大な被害を受けましたが被害を乗り越え頑張っています。
 

 

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釈迦町

天満宮の所在する宮元町として、元町とともに八朔祭りの執行においては重要な役割を果たす街の一つです。釈迦町という町名は全国でも稀な地名ですが、古に釈迦堂がありそのことに因んだ地名といわれています。
釈迦町の屋台ですが、平成7年に完成、他町の屋台に比べ一回り大きく豪華な屋台として目を引きます。平成の傑作として人気の屋台です。
この屋台に搭載の大太鼓(和太鼓)は、ひたちなか市指定文化財です。
 
 

 

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元町

天満宮からの参道を有する当町内は、御神行に供奉する「みろく」を運行します。
この屋台は、通称「デボミロク」と呼ばれ、赤・白・青の三体の人形が舞を披露します。いや、赤いお顔の鹿島神、白いお顔の住吉神、青いお顔の春日神が笛・太鼓・鉦のコミカルなリズムのお囃子にあわせて祈祷します。
囃子方、振り方はこのまつりのために年間を通して日夜精進しお披露目のまつりに備えています。
元町みろくでは当日の参加者や、お囃子に興味のある方を広く応募しております。年齢性別、住居に関係なくご参加ください。

 
 

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小川町

【小川町とは】
『大川を前に小川町』 目前に那珂川を望む町内。大昔には那珂川に中洲があり、中州の向こう側が本流、陸に近い手前側の支流が町内を流れていたため小川町という名前が付いたと云われている。
その後、昭和40年代までは町内の河岸に魚市場(通称:旧ドック)があり大変賑わった地域である。また町内に華蔵院という寺院があり歴史の古い町内でもある。
 

 

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田中町

「田中町」という町名は、平成6年に那珂湊市と勝田市が合併するまで使われていた町名です。現在はひたちなか市栄町2丁目、田中後を中心に釈迦町、栄町1丁目の一部で構成されています。特に田中後には数多くのチェーン店が立ち並び、夜遅くまで買い物客などの人たちが行き交っています。 田中町氏子会は現在149世帯から成り立っています。お祭りの際には、氏子会会長を筆頭に評議員・若連を合わせた約80名と田中町あづまが丘子ども会、関戸しいの実子ども会の協力を得て、楽しく安全に実施しています。屋台にはここ何年もの間「粋鼓連」という民謡保存会の方々に、笛・鉦は「那珂湊屋台の囃子保存会」の方々に乗っていただいています。
現在の田中町の屋台は平成11年(1999年)7月18日に竣工、お披露目されました。屋根・唐破風は黒漆塗りで本体は白木、欄干は朱色漆塗り、土台は黒漆、金具・彫刻を多用しています。

 

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殿山町

殿山町の屋台は,他の町内と異なって唯一町内の女子達が屋台の上で太鼓を叩いてお囃子を奏でるのが特徴です。
5月から8月までの3ヶ月間,太鼓や踊りを一生懸命に練習してきましたので,可愛い姿を是非ご覧ください。心から楽しめて感動しますよ!
 
 

 

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牛久保町

牛久保町が八朔祭りに掛ける思い

天満宮御祭禮は1965年江戸時代から町の繁栄を願い現在まで引き継がれる
伝統のある関東三大祭りである。
 牛久保町は海岸に接していて、かつては漁港を有する漁師町であった。
そのような気質引き継がれ活気が有り、団結力(よこのつながり)は大切にする町内です。
時代の流れで高齢化は進んではいるが老若男女、活気のある八朔祭りに掛ける
思いは那珂湊地区一番だとみな思っています。

牛久保町の屋台は平成2年に旧屋台から引き継ぎ新規建造され30年町内の大切な屋台として令和の現在に引き継がれています。
 
 

 

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北水主町

 
 

 

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南水主町

江戸時代の地図では御水主士の住む町内として水戸藩の管轄であったようです。
御水主師の任務は、水戸藩の湊御殿夤賓閣(いひんかく)(現在の湊公園にあって元治甲子の乱(1864)で焼失)の業務、藩所有の船の業務、海防・砲台の業務などもあったようです。
この関係から南水主町には御殿で使われたと伝えられる木琴、船の名を刻んだ扁額が伝わっています。
小さい町内ですが天満宮の隣町でもあり礼祭の一員として参加しています。