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みなと八朔まつりについて


まつりの歴史

三百年の伝統

およそ300年前の元禄年間
徳川光圀公によってその形が整えられたと
つたえられています
 
この「みなと八朔まつり」は、かつて関東三大祭りの一つと言われていました。神輿が海に入る「浜降り」の神事を伴うのが大きな特徴です。また、祭礼には「獅子」と「みろく」の人形踊りが披露され、風流物と呼ばれる豪華絢爛な「屋台」が各町内を巡行します。

那珂湊天満宮御祭禮の特徴

祭禮について

那珂湊天満宮御祭禮の大きな特徴は

伝統と格式とを重んじて正確に伝承する点、かつての豪商達や網元達の旦那衆、若衆達が心意気や粋の見せどころ張りどころと、これでもかと財力の散財をする派手さ・豪快さを競いました。
これも水戸藩の台所と言われた那珂湊ならではだと思います。
数々の郷土史資料にも、「那珂湊天満宮の祭礼の特徴は、浜下りの御神幸の格式もさることながら、この驚くべき華美と出費とにある。」、「明治時代末期になっても、那珂湊八朔祭りの華美とそれに伴う莫大な出費は、変わることはなかった。」、「湊の衰退の現状を考慮して、華美を廃せとの運動が起こったが、結局、変わらなかった。」、「敗戦の翌年・昭和21年は、平和が戻った喜びで、風流物の出場も特に多く、記録的な大祭となった。」、「昭和22年の大火からまだ2年なのに、昭和24年には早くも復興祭と称して本祭りを挙行した。」などと書かれているように、本祭りの実行には莫大な費用がかかるのは事実であります。
年番町は天神様の梅鉢の御紋入りの羽織・袴を新調し、女の子達は手古舞姿一式を新調します。
各町は、風流物の新調や維持・手直しや、役員は梅鉢の御紋入りの羽織、若い衆は町名入りの半纏等そろえます。
他町の風流物に自町内の祭典事務所、若連事務所で「門付け」のために出す御祝儀のほか、飲み食いなどにも大盤振る舞いをしました。
湊の人達は本祭り挙行をするからには無理をしてでも見栄を張ってドーンと寄付金を出していました。
以前は背の高い山車の上に各町競って人形等飾り物をした形式が主流でした。獅子とみろくは江戸時代のままの姿ですが、他の風流物は、明治末期に電線が張られてからは、現在のような屋台ばかりになりました。
屋台には芸者衆が乗り、昼夜二通りの違ったお囃子になります。
昼間は優雅に舞い、門付けをしながら町渡しをします。夜は激しく華やかに囃しながらお神輿をお送りします。
お囃子に三味線が入る点や屋台がお神輿よりも目立ってしまう点などは、かなり珍しいかもしれません。
門付けには「磯節」「網のし」などの民謡で舞を披露します。
また、お神輿を海中で揉み、陸(おか)へ上がっては「あばれ神輿」と化す、お神輿の「お浜入り」も見どころの一つです。

農園の環境について

天満宮の由来

天満宮は、菅原道真公を奉斎した神社で、今から700余年前の鎌倉時代、海上に種々の奇瑞が現われ、神託を乞うや、道真公の神霊が、この地に降ったとのことであった。時の領主は、北野山満福寺泉蔵院を創建して守護させ、神領として25貫文の地を寄せられた。それ以来、住民の信仰が篤く、南北朝時代の頃には、神前で大磐若経の転読が催された記録が見える。神仏混淆の時代には、久しく仏像を安置しておいた。
時が移り江戸時代になると、第2代徳川光圏公は、元禄年中に寺社改革(神仏分離)を行ない、家臣東條常言に命じて、菅公の御神像を造らせ、神宝を添えて遷宮の式を行なわせた。また祭礼の式も改め、社職を泉蔵院別当から柏原明神(現在の橿原神宮)の社守鈴木長門に命じた。
爾来、歴代の藩主は、とくに天満宮を尊崇し、祭礼の式は幾度か改められ、数百年を経た現在も伝承されている。
昭和58年5月
天満宮宮司 井上義

橿原神宮の由来

神武天皇・桓武天皇・崇道天皇を奉斎した社で、奈良時代の和銅年中に創建したといわれ、室町時代の仁寿年中になって石崎村升原(茨城町中石崎)から、湊村の宮山町(明神町)に奉遷した。延長5年頃は柏原大明神と称して、この地方の布施・鈴木家などを中心とした平氏一族の守護神となっていた。
その後、社名を橿原神宮と改め、湊村の鎮守として尊崇されるようになった。
 宮山町にあった社殿は、江戸時代寛文12(1672)に炎上し同年8月17日、富士ノ上地内に遷した。今日まで約300年の歳月が経過している。
ご祭神は、神武東征や蝦夷征討などの故事に因んで、多くの崇敬者から厄除けの神とあがめられている。

お神輿について

3日目の天満宮では「神幸祭」のあと、年番町に引き継がれ、厳かな神幸行列となって御仮殿まで巡行します。ここで神霊は一夜を明かし、翌朝、和田町を中心とした人々によって海中に神輿が沈められ、その中を荒々しく揉み合います。
海から上がった神輿は、奉仕者たちとともに水がかけられ町内を巡行し、御旅所から御仮殿まで厳粛に進みます。夕刻には、「還幸祭」として御仮殿を出て天満宮へ向けて巡行し、天満宮本殿に神霊が還されます。

獅子

獅子について

御祭禮には六町目より露払いとして獅子を出すことになっています。
六町目の獅子は3匹の獅子で「ささら」と言われ底なし屋台で、あやつり人形のようなもので、屋台の上で「踊り」が披露されます。この3匹獅子は親子獅子だと言われています。
このような棒にくくりつけて振るタイプの獅子を「棒ささら」とも呼びます。

みろくについて

元町のみろくは白、青、赤の神様で 、住吉明神、春日明神、鹿島明神です。
みろくの演舞は、お祓いとお神楽をあげることや祝詞をあげるときの神事です 。
また 、屋台の上で 、3体が「町渡し」のときにも演じられます。「能楽」の最初に演じられる「翁」という演目があります 。その原型が、父尉(繹尊)、翁(文殊)、3番(みろく)をかたどったものといい、やがて「翁式三番叟」の形式になっていったそうです。